裏木曽中津川

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地域のご案内(観光)

坂下・山口 川上 加子母
付知 福岡 蛭川

福岡

下野庚申堂

鎌倉時代源頼朝の勧奨により、文覚上人がひろく
佛跡の再興を図るため、諸国遊化の際にこの地へ尊像を
携えてきて安置されたと言われている。現在もなお多くの
善男善女の信仰の地として伝統を守り、法灯の絶えることが
ありません。

常盤座

楽屋の落書から明治24年5月6日の舞台開きを知ることが出来る。入母屋、妻入りの形式で間口17・1メートル、奥行き26・9メートルと立派なもので、農村の娯楽の殿堂 として賑わった往時を
偲ぶことが出来る。戦時中一時軍需工場に利用されたりしたが、
その後何度も改修され、平成4年には屋根の 葺き替え工事と共に
回り舞台も復元した。地区の歌舞伎保存会によって、
毎年素人歌舞伎や子ども歌舞伎が上演され、賑わいを見せ ている。

新寝覚

田瀬樋之口地内付知川の両岸約150メートルにわたって
見事な岩石の景観と渓谷美を見せて いる。1億年以前の
火山活動で生成されたもので、濃飛流紋岩(石英斑岩)が
主体となっている。日露戦争後、第三軍司令官であった
乃木希典大将が木曽川の寝覚めの床に似ているこの景色を賞で
「新寝覚の床」と命名されたと言われている。

北恵那鉄道歴史保存会館

昭和53年9月廃線となった、北恵那鉄道の歴史を残そうと、
平成9年より資料や用品の収集を有志で行い、以後各地の
イベントに出展活動している。
管内には、国宝姫路城の心柱や伊勢神宮用材奉搬の記録、
警笛を鳴らして走る電車模型があり大人も子どもも楽しめる
「岐阜県登録まちかど鉄道保存館」である。

見学要予約・入館無料
TEL0573−72−2906

湯の島ラジュウム鉱泉(ローソク温泉)

鉱泉の発見の時期は定かでないが、江戸時代の「高山村湯之島入湯願書」に記録があり、古くから利用されていたことが分かる。
大正2年山荘主の森本義臣が東京衛生試験所からラジウム含有量
281マッヘ(現在日本 第1位)という泉質証明書を
交付されている。
その後、湯之島一帯の譲渡を受けた名大病理学教授林直助博士によって湯之島保養所が 開設され今日に至っている。
大正5年には俳壇の巨匠高浜虚子とその門人が来遊し、吟詠している。

福岡ローマン渓谷オートキャンプ場

ふくおか地区を南北に流れる清流付知川の中で、
市内でもっとも美しいとされるローマン渓谷にある
オートキャンプ場。春は桜、夏は川、秋は紅葉と多彩であり
管理人が提案するイベントもこまめに行われます。
期間4月1日〜10月31日

伝説・云われ  小町井戸

下野本郷の農道沿いの中世の古道であった一角に小さな池がある。「平安前期の代表的な 歌人で絶世の美人とうたわれた小野小町が、
吾妻路に向かう途中、この清水井戸で白粉をと かし旅の化粧崩れを直し、旅立って行った」という伝説がその名の由来である。
また生命の泉を神聖視し、男根に仮託くして水の神秘さを崇めた。

伝説・云われ  氷餅の池

享保八年、六代藩主遠山豊前守友将は、「氷餅」の製造場所を
苗木高峯山から福岡二つ森 山頂に移転を命じた。山道作り、
小屋かけ、井戸掘りと近郷の百姓204人が二日間で完成したと
伝えられている。氷餅は、寒冷期に池水を利用して餅を凍らせ、
乾燥して粉状にしたもので兵糧備蓄等に供した保存食である。

アジメドジョウ生息地

「アジメドジョウ」は、中部日本の一部の河川の上流部に
生息するドジョウ科の魚である。古くから「アジメ」(味女)の名の
下に広く地元の人々に親しまれ、美味なる魚として珍重されてきた。付知川のアジメドジョウも水質汚濁や乱獲などで絶滅寸前である。

ヒトツバタゴ

「ヒトツバタゴ」は別名「ナンジャモンジャ」とも言われ、
モクセイ科に属し、雌雄異株の直立する高木で分枝があり、
湿地を好んで自生する。5月ころ白い花が若葉の上に出て、
満開のときはさながら雪を被ったような見事な景観を呈する。
東濃地方の一部のみに分布する貴重な植物です。

付知川(福岡大橋から見た景色)

今や中津川市のシンボル。長さが200m、高さは河床から
75mもあり橋の上から福岡ローマン渓谷の眺めは最高です。

不動滝

滝は、古代より信仰の対象にされることが多いが、この不動滝は真東に向かって位置していることから希少な滝で、密教修験者の浄域として尊ばれてきた。年代はさだかではないが紀州の行者がこの滝を見つけ不動明王を祀ったと伝えられる。滝に向かって左の岩場に梵字碑がある。この地方では大変めずらしい。

南無阿弥陀仏の碑

杉渡瀬の西古道筋を北に向かうと、山の斜面が付知川の川岸に迫っているところが広瀬で ある。この旧道の傍らに六体に石仏が並んでいる。正面に向かって右側の小さな屋敷跡は、かってここに阿弥陀堂が立っていたと推察され、こ の境内に「南無阿弥陀仏」の大きな名号塔が立ち、裏面に「安永三年甲午三月吉日」と刻銘されている。

広恵寺の観音様と宝筐印塔

中世時代の遠山一派の拠点で広恵寺城の南谷に位置し、観応元年夢窓国師の弟子、枯木 紹栄禅師が開山し、国師の寄進による観世音菩薩像を本尊として祀ったとつたえられる。周辺一帯に宝筐印塔、五輪塔などが点在し、旧時の遺構をしのぶ石垣も残っている。現在 の堂宇は昭和60年に再建された。

鉄砲池古戦場

天正年間に苗木の遠山氏と美濃兼山の森氏との間に激しい合戦が行われた場所である。この合戦で討ち死にした武士の死骸や鉄砲などの武器を投げ入れ埋めたと伝えられる池である。その後、この池に赤と黒との奇妙な形をした魚が棲むようになり、この魚を見た人は目が悪く なると言い伝えられ、ここを通る村人達は、目をそらせて通ったと言う。

新兵衛・新四郎屋敷跡

下野村庄屋田口新兵衛は、隣村との山論の調停に条理を尽くし努力したが一向に好転せず、苗木藩に提訴したが下野村方敗訴という重罪の断が下された。新兵衛とその子新四郎は憤恨やるかたなく、元禄二年七月庄屋屋敷を炎上させ、万策尽き 自害する。無念のあまり庭の椿に向かい、「椿よ性あれば永遠に実を結ぶことなかれ」と辞世の句を残した。

野尻遺跡

付知川と松島川の合流点、付知川左岸の中位段丘、標高約340メートルに位置し、古代人はこの 見晴らしのよい台地に穴居して、狩猟や漁獲に明け暮れていたと想像される。先史考古学に先鞭をつけた安保生氏の努力により、昭和31年、名古屋大学調査団によって 竪穴住居跡が発見され、県の史跡に指定される。

生物学者 丹羽 彌

明治23年下野村鎌田幸次郎の四男として生まれ、岐阜師範学校卒業後丹羽家の養子 となる。愛知第一高等女学校並びに岐阜県立中津高等学校の教諭を経て退職する。その間ニワムシを発見、またアジメドジョウの研究を重ね、天皇陛下へのご進講の栄に浴する。京都大学から理学博士の学位を受け、福岡町名誉町民となる。

実業家 長瀬富郎

文3年福岡町新田に長瀬栄蔵の二男として生まれる。明治18年生雲の志を抱いて上京し長瀬商店を開店、明治23年石鹸工場を創業し花王石鹸 を発売する。内国勧業博で最高名誉賞を受領し現在の花王石鹸の創始者として名を成す。

榊山神社の石燈籠

本殿右脇社前にあるこの石燈籠一対は、高さ210センチ、笠巾55センチ、左右の側面に 「元文三年戌年十月吉日」「西尾孫六郎勝房」とそれぞれ刻銘されている。その他石燈籠、鳥居、手洗鉢など古い石造物は町文化財に指定されている。

天神様の石燈籠

芭蕉天神前に苔むした石燈籠が一対ある。方形の基壇の上にみにふくらみを持たせ、反花 の蓮弁が刻まれ、その上に竹節型の円柱が立ち、正面に「奉寄進石燈籠」裏面に「正徳四年甲午 天十一月吉日良辰」左側面に「福岡住人施主志津七左衛門」と刻まれている。春日燈籠の名で知られる四角形燈籠で江戸期様式である。

太刀(銘吉則)

鎌倉期後期から南北朝時代にかけての刀匠、山城国三条の住人「吉則」の作刀である。三条派吉則の制作で現有するのはきわめて少なく、国の重要文化財の指定を受けているの は、この太刀一口のみである。"長さ75,6センチ、反り2,6センチ、磨き上げがなされ、茎尻に刻銘がある。保全のため東京国立博物館に寄託されている。

野尻遺跡 縄文土器

野尻遺跡は、昭和31年に発掘調査され縄文時代前期を主体とする遺跡として県指定史跡 とされている。縄文時代前期の西日本に主体を持つ土器様式北白川下層式の土器と東日本を主体とする 諸磯式土器の両者が出土している。 この地が東西文化の交差する地点であったことを物語っている。

夏焼遺跡 土器・獣骨

縄文時代前期の特徴をもつ台付き土器と獣骨が、夏焼岩陰から採取されている。獣骨は縄文時代のものかは不明。土器は細い粘土紐をソーメン状に張り付け、羽状縄文と呼ばれる縄文紋様を地紋としている。縄文時代前期末の特徴をよく表している。庭石採取工事の際に発見された。

シデコブシ

「シデコブシ」はハナノキ、ヒトツバタゴなど希少固有種で岐阜県東濃地方を中心に生育して いる。土地開発が進行する中、これら原植物種の絶滅が危惧されており、希少固有種を保存 する声が高まっている。この「シデコブシ」は福岡町高山に自生し花弁数が18〜24枚となっている。

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